神奈川の大学生の私見と私感

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太宰治「惜別」から考える青春と思想

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「惜別」あらすじ

 

こんにちは、今回は太宰治の「惜別」についての記事です。

この作品は東北大学医学部の前身である仙台医専に清国からの留学生である周さん(後の魯迅)が訪れて、東北訛りというコンプレックスから都会者に対して恐怖を抱き、大学になじめないでいた主人公と仲良くなり、日露戦争中の日本の下で交遊関係を築いていくというものです。

作中は日露戦争ですが、この作品が執筆されたのは太平洋戦争中であり、日中戦争のさなかでもある中で、中国人留学生と日本人の交流を描くという国際情勢的にセンシティブな作品でもありました。そんな時期に書かれた作品に表れている国籍を超えた大学生の青春に心を動かされたので、ここからは私がこの「惜別」を読んで感じたことを書いていきたいと思います。

二人の精神的な青春

 

この学生二人の大きな共通点は大学に親近感を抱いていないという点でしょう。この二人だけが入学式には角帽をかぶらず、作中でも「同じ羽色のカラスが数百匹集まると猥雑に見えてくる。」といったように書かれており、他の学生が同じように群れていることを脇目に見ています。おそらく、二人が大学に親近感を持たなかった理由は、思想の次元が噛み合っていなかったからだと考えます。

周さんは国を改めなければならないという大きな目的のもとで日本に渡ってきて、清国での現状を自分なりに分析しているので、日本の文明や慣習について聡明な思想を持っています。これに対して主人公は「ウマが合った」と周さんと仲良くなった理由について述べていますが、これは主人公の持つ思想が同じ程度の次元に立っていたためであるだろうと想像がつきます。些か、周さんの会話に対して主人公は受け身の対応であり、聞き手であることが多かったことから周さんほどの思想は持っていなかったものも、受け答えして話を本質的に理解しているという点から、主人公もそれに近い思想を持っていたのでしょう。

上記のように、気難しい国際情勢の中で国籍を超えて二人が交じり合ったのは、大学生という思想が揺れ動き、確立されていく時期にそれを理解し合える関係であったからでしょう。互いの思想を語り合い、理解し合える友人はなかなか見つかるものではなく、その友情関係は小中高とは全く違った、精神的な青春であると言えるでしょう。

大学生は社会人に比べて実存的なことに捉われないで済み、考えをめぐらす時間も十分にあるので、世俗的な考えを抜きにした思想が張り巡らされやすいのです。

大学は自己思想を作り上げる場所

 

では、彼等を結びつけた大学生の思想はどのようなものか、当然ながらその人物の知識量・人間関係・社会情勢など様々なファクターによって構成されます。学生が思想を持つためには自分の興味のある分野から啓蒙されること、知的好奇心を探求することだと思います。若い思想は挫折がつきものです。大学生のうちは知識の幅が狭く、自分の思想が新たな知識によって打ち破られてしまうことが多くあります。周さんも思想的な挫折を繰り返し、医学という分野で母国を救済しようと考えていましたが、五体満足な若者の精神と国民性の改革が必要だとして文学の道に思想を固めて魯迅という立派な作家になりました。打ち破られた思想はより強固な思想を作り上げる土台となります。本質がぶれることなく思想を重ね続ければいずれ自分のものになるのではないかと思っています。それを可能にするのは自分の本質に見合った知識を追い求め続けることだと思います。

「どんな偉大な思想でも、それが客間の歓談で利用されるようになれば死滅する。それはもう思想ではない、言葉の遊戯だ。」と周さんは作中で語っていました。思想は個人の物であり、他の人の思想は知識にとどめて、それを昇華させて自分の思想を固めていくことが大学生のうちに大いにできることで、今後の人生を精神的に豊かにしてくれると思います。

以上、ご覧いただきありがとうございました。

 

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