神奈川の大学生の私見と私感

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第1回 トマ・ピケティ「21世紀の資本」解説

 

「21世紀の資本」を読む

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こんばんは、今回からピケティの「21世紀の資本」について自分なりに解説をしていこうと思います。ピケティはフランスの経済学者で本作は2013年発刊で、amazon売上総合第1位も獲得した、まさに21世紀の経済学にとって莫大な影響をもたらしたものです。ゆっくりと読み進めていくつもりですのでどうかお付き合いください。では、初めていきたいと思います。

はじめに(1頁~38頁)

格差社会と向き合う

 

この本は「分配の問題」についての研究であると述べられています。分配が正常化されることが近年の国内外での格差社会の解決への重大なファクターの1つであるというところから本書はスタートしていきます。その前提として、ピケティの経済研究の姿勢として重きを置いているデータとの向き合い方についてご紹介します。

ピケティの批判的データ処理

 

上記の「分配の問題」を「広範な歴史的データの集合」から分析しすることで将来へのアイデアを得ることができるとピケティは記しています。「歴史的データ」は問題分析に非常に役立ちますが、社会的・政治的背景が色濃くあることを理解しなくてはなりません。例えば、国民経済計算(国民所得や国内総資産など)は18世紀頃にフランスやイギリスで推計が登場し始めました。このデータは市民革命期の国内経済分析として、平等な社会の正当性を主張するために産出されたという社会的性格を強く持っています。また、国家単位のマクロな総量や平均のデータは個人の格差に触れられないという性格も把握して、これらの不完全な研究ツールとしてのデータを、批判精神を持って使い、ほかの情報源と組み合わせて使うことが重要であると初めに述べられています。このような「歴史的データ」を重要視しながらも、懐疑的で慎重にデータと向き合っていく姿勢が、この後のピケティの主張をより信憑性の高くし、事実に即した経済分析であると認められている理由の1つでしょう。そんな本書の本題である第1章に入っていきたいと思います。

第Ⅰ部 所得と資本

第1章「所得と産出」(41頁~76頁)

 

所得と資本の関係式 "a=r×β"

 

 

「分配の問題」として、企業や国家の所得を、人的労働と非人的資本との間でどのように分配するかが1つとして挙げられます。この問題を解決するために資本主義では所得や資本といった要素がどのような役割をしているのかを把握する必要があります。

a=r×β

この式は国民所得と資本の関係について表す簡単な式です。aは国民所得のうち、資本から得られる所得量βは所得と資本の比率rは資本収益率となっています。ある国が持っている国内資本(工場や不動産など)が6000億円分あったとして、国民総所得が1000億円であったとします。βは6000÷1000=6=600%となります。資本収益率が5%であったとすると(現代の先進国は大体この程度の値)β×rに当てはめて、a=0.05×6=0.3で、a=30%になります。つまり、この国では国民所得1000億円のうちで、30%の300億円が資本から得られているということになります。

ピケティはこの式から資本と所得の相互関係を念頭に入データを踏まえながら「分配の問題」に取り掛かっていきます。第1章まではこのような研究の前提となる内容となっており、これから「21世紀の資本」を読んでいくうえで必要な役割をはたしています。次回は2章「経済成長」に入っていきたいと思います。なるべく早く更新できるように頑張りたいと思います。

以上、ご覧いただきありがとうございました。

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メディアは客観報道であるべきか?

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こんにちは、今日はメディアの報道方法について私が感じることを少しまとめて書いていきたいと思います。よろしければお付き合い下さい。

 戦前メディアからの反省としての客観報道

 

メディアの報道内容でよく言われるのは「客観報道」を行うべきだという意見です。つまり、記者の主観に基づく記事を書くのは誤りで、事実のみを客観的に見て報道するべきだという考え方です。果たしてこれは正しいものなのでしょうか。

まず、なぜメディアで客観報道が行われるべきだとされているのでしょうか。その背景には戦前の国策報道や、連合国軍占領下でのプレスコードなどの負のメディアの歴史が大きく関係していると思われます。このような政府などにより意図されたコンテンツを報道することにより、国民が事実を知ることができず、メディアとして最優先されるべきことが蔑ろにされていました。この反省として、「報道は国民に事実を正確に偽りなく伝えるべきである。」という観念が国民や報道機関の中で強く芽生えました。この観念は当然、報道を行う上で最重要事項であり、守られなければならないものですが、この反動として、「報道に記者の意思が入り込んではいけない」、「事実をそのまま客観的に報道しなければならない」という強迫観念を生み出してしまったのではないかと考えられます。

客観的事実×記者の主観からの判断

 

しかし、このような強迫観念はよくないものなのでしょうか。事実を報道するのはメディアとして当然のことではないかと考えられます。

私が考えるのは記者が事実を捻じ曲げて報道するべきだというのではなく、情報を正確に伝えるには記者の意思が入り込むことも必要であると思うのです。いわいる発表報道は正確な情報の提示にはなっていないのではないかということです。すべてのメディアが黒といわれれば黒としか報道しないようでは、与えられる情報に偏りが生じます。その情報の信頼度によって、記者が情報収集を行い、その事実に間違いがないか確認し、あるいは記者の長年の取材経験から生まれる意思を踏まえて、独自の考えをもとに追加取材を行うといった情報を洗練する作業が「正確な情報」を報道するために重要なことであると思います。

客観報道は事実を伝えるために非常な重要な考え方であるとは思いますが、主観的な観点も踏まえて洗いざらいされた情報が真に適切な情報になり、客観視だけでは真に適切な情報に該当しない場合もあるかもしれません。情報を客観・主観のバランスをうまく使い分けて洗練していくのは非常に難しい作業であるとは思いますが、この作業を行っていける記者が多ければ、日本のメディアはよりよくなっていくと思います。

以上、ご覧いただきありがとうございました。

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太宰治「惜別」から考える青春と思想

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「惜別」あらすじ

 

こんにちは、今回は太宰治の「惜別」についての記事です。

この作品は東北大学医学部の前身である仙台医専に清国からの留学生である周さん(後の魯迅)が訪れて、東北訛りというコンプレックスから都会者に対して恐怖を抱き、大学になじめないでいた主人公と仲良くなり、日露戦争中の日本の下で交遊関係を築いていくというものです。

作中は日露戦争ですが、この作品が執筆されたのは太平洋戦争中であり、日中戦争のさなかでもある中で、中国人留学生と日本人の交流を描くという国際情勢的にセンシティブな作品でもありました。そんな時期に書かれた作品に表れている国籍を超えた大学生の青春に心を動かされたので、ここからは私がこの「惜別」を読んで感じたことを書いていきたいと思います。

二人の精神的な青春

 

この学生二人の大きな共通点は大学に親近感を抱いていないという点でしょう。この二人だけが入学式には角帽をかぶらず、作中でも「同じ羽色のカラスが数百匹集まると猥雑に見えてくる。」といったように書かれており、他の学生が同じように群れていることを脇目に見ています。おそらく、二人が大学に親近感を持たなかった理由は、思想の次元が噛み合っていなかったからだと考えます。

周さんは国を改めなければならないという大きな目的のもとで日本に渡ってきて、清国での現状を自分なりに分析しているので、日本の文明や慣習について聡明な思想を持っています。これに対して主人公は「ウマが合った」と周さんと仲良くなった理由について述べていますが、これは主人公の持つ思想が同じ程度の次元に立っていたためであるだろうと想像がつきます。些か、周さんの会話に対して主人公は受け身の対応であり、聞き手であることが多かったことから周さんほどの思想は持っていなかったものも、受け答えして話を本質的に理解しているという点から、主人公もそれに近い思想を持っていたのでしょう。

上記のように、気難しい国際情勢の中で国籍を超えて二人が交じり合ったのは、大学生という思想が揺れ動き、確立されていく時期にそれを理解し合える関係であったからでしょう。互いの思想を語り合い、理解し合える友人はなかなか見つかるものではなく、その友情関係は小中高とは全く違った、精神的な青春であると言えるでしょう。

大学生は社会人に比べて実存的なことに捉われないで済み、考えをめぐらす時間も十分にあるので、世俗的な考えを抜きにした思想が張り巡らされやすいのです。

大学は自己思想を作り上げる場所

 

では、彼等を結びつけた大学生の思想はどのようなものか、当然ながらその人物の知識量・人間関係・社会情勢など様々なファクターによって構成されます。学生が思想を持つためには自分の興味のある分野から啓蒙されること、知的好奇心を探求することだと思います。若い思想は挫折がつきものです。大学生のうちは知識の幅が狭く、自分の思想が新たな知識によって打ち破られてしまうことが多くあります。周さんも思想的な挫折を繰り返し、医学という分野で母国を救済しようと考えていましたが、五体満足な若者の精神と国民性の改革が必要だとして文学の道に思想を固めて魯迅という立派な作家になりました。打ち破られた思想はより強固な思想を作り上げる土台となります。本質がぶれることなく思想を重ね続ければいずれ自分のものになるのではないかと思っています。それを可能にするのは自分の本質に見合った知識を追い求め続けることだと思います。

「どんな偉大な思想でも、それが客間の歓談で利用されるようになれば死滅する。それはもう思想ではない、言葉の遊戯だ。」と周さんは作中で語っていました。思想は個人の物であり、他の人の思想は知識にとどめて、それを昇華させて自分の思想を固めていくことが大学生のうちに大いにできることで、今後の人生を精神的に豊かにしてくれると思います。

以上、ご覧いただきありがとうございました。

 

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「読書する人だけがたどり着ける場所」齋藤孝

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読書をベースとしたインターネット活用法

 

ご覧いただきありがとうございます。この間購入した齋藤孝さんの新書を読み終えたので、今回はそれについて書いていこうと思います。

この新書の中で、インターネットの情報と本による情報の違いについてのお話がありました。「ネット上では情報を読む人が主導権を握っており、自分にとって面白い情報だけしか読まない。」とあり、だからネットで得た情報と本で得た情報は厚みが違うのかと納得がいきました。面白い情報があふれかえっているネットの世界では、ひとつの情報に対する興味が薄くなりやすく、その影響でネットの場合だと、記憶に残る情報が入手しにくいのだなと私はこの本を読んで考えました。

私自身はネットでの情報を結構な頻度で活用しています。ただ、ネットを使って情報を得る場合は、読書や講義での追加情報として活用しています。理解できない単語を調べることも当然行いますが、特に面白いなと思って調べていることはその情報についての「ネットの意見」を見ることです。

著者の意見とネットの意見から自分の意見を創造する

 

例えば、読書の中で「つまり、○○はこういうことなのです。」と言う様な事が書いてあったら、ネットで○○と調べて、それに関する意見・主張を探して読んでみます。そうすることによって一度読書の世界から身を引いて客観的にその情報を見ることができます。本の作者も私たちと同じ人間ですから、どうしてもその人なりの偏見・観念が含まれたコンテンツになります。そこで、「ネットの意見」を見てみることによって、その意見が正しいかは別として自分はどのように考えているのかということを意識しやすくなります。この本でもこれと似たような意味で著者がおすすめしてたのが、読み終わった本のレビューを読むことで、これにより新たな視点での発見があるという風に書かれていました。

本を読むことのメリットとメソッドが詰まった面白い新書だったので皆さんぜひ読んでみてください。また、ここで紹介したネット活用方法や読書法もよろしければ使ってみてください。

以上、ご覧いただきありがとうございました。

 

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紙の本と電子書籍どっちが良い?

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当ブログにお立ち寄り頂きありがとうございます。私は読書が趣味で、1ヶ月に大体10〜20冊程度読んでいます。

そんな私が今回考えたのは、紙の本と電子書籍どっちが良いか?という問題です。私は紙の本が好きなので偏った意見になると思いますが、個人の考えなのであしからず。

 紙の本のここが好き

 

紙の本の方が好きな理由のひとつとしてディスプレイの簡単さがあります。電子書籍でも当然読んだ本を管理する機能は存在すると思いますが、私は自分が今まで読んだ本を本棚に並べて「こんな本も読んだなぁ」と思い返して、パラパラとページをめくるのが好きなので本は紙の物を必ず購入します。電子書籍青空文庫をたまに使用しますが、序章だけ読んで面白いなと思ったら紙の本を買いに行きます。

 紙の本のここが機能的

 

以上が感情的な理由で、次は紙の本の方が機能的に優れていると思う面を挙げたいと思います。

読書だけでなく、映画を見たり、勉強したりするときも、それらの事を行う環境を作ることが効率的に実行するためのポイントだと思います。つまり、読書の場合だと、紙の本は気軽にページを開くとその1冊の本だけの世界に入り込み、効率的な読書の環境が整います。一方で電子書籍の場合、スマートフォンタブレットを使う場合は当然、電子書籍のためだけのものではないですから、読書だけに絞った効率的な環境を作りにくいと思うのです。また、電子書籍用のタブレットなども存在しますが、こちらの場合もひとつのタブレットで複数の小説や雑誌、漫画なども読めるのでやはり、紙の本に比べて、その1冊に特化した環境は作りにくいと考えられます。

これらの理由が私が紙の本の方が好きで、優れていると思う理由です。ただ、私は電子書籍で本を読んだことはあまり無いので、かなり粗雑で乱暴な意見になってしまったかもしれません。申し訳ございません。それでも、この記事を読んでくださった方が、紙の本買ってみようかなと少しでも思っていただければいいなと思ってここまで執筆させていただきました。

 

以上、ご覧いただきありがとうございました。

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「新聞記者」望月衣塑子 

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「質問できる記者」の誕生まで

 

官房長官会見で質問をぶつけ続ける東京新聞の記者である望月衣塑子さんの半生と、記者として真実を追求する姿を描いた作品。松坂桃李主演でこの作品を原案に映画化もしている今話題の1冊を読んでみました。

日本のメディア関係はとても興味のある分野であったので、いろいろと考えさせられる作品でした。

官房長官会見とメディアの実態

 

現在の日本の官房長官会見は、核心に触れず、聞かれたくないことは記者も気を使ってきかないという無言の圧力のかかった閉塞的なものであるのだとこの作品を読んで感じました。著者はその中で、自分の探求したことに対して質問を続けて、世間に真実を届けようと奮闘しており、その姿勢にはとても尊敬を抱きました。

このような真実を追い求めるためのジャーナリズム活動は、見えない圧力や周りからの視線など、多くの困難に向き合いながら行わなければならず、それでも自分の活動の仕方を貫き続けるのは素晴らしいと思うと同時に、日本のジャーナリズムはなぜそのようになってしまったのか疑問に感じます。

新聞は政府の拡声器ではない

 

新聞は数々のメディアの中でかなり信頼度の高いものだと思います。インターネットが普及し、情報リテラシー能力が問われるようになっていますが、インターネットで拾った情報より新聞の情報のほうが確実で信頼できるというのはなんとなくの認識があると思います。その新聞が官房長官会見で圧力にひれ伏せて、同じような報道をするのではメディアとしての機能を全く果たしてないと私は考えます。

例えば、Xという事件に対して、政府は見解Aを打ち出し、この見解Aを記者に説明します。現状ではそれに対して突っ込みを入れる記者は少なく、事件Xの見解Aをそのまま新聞にして世間に流すというのがパターンになっているように考えられます。

しかし、私の考える新聞に必要な役割は、果たして事件Xに対して見解Aは適切であるのかを検討し、場合によっては見解Bのほうが適切ではないのか、実は事件Xにはまだ明るみに出ていない事実があるのではないのか、このように疑いをかけて、政府の見解を世間に流す前のフィルターの役割を行うことが大切だと思います。政府の拡声器の役割なら誰だってできる。本作品の著者のように真実を追求していく記者が本来あるべき姿で、絶対にこのように変わっていくべきだと思います。著者の主張が正しいか正しくないかは別として、答えを追求していく姿勢は必ず必要です。フィルターは1枚よりも複数枚、1種類よりも複数種類のほうが効果は上がります。もし、フィルターが間違っていても、複数あればカバーすることもできます。多種多様なフィルターに濾された質の高い情報が新聞から発信されることを期待しています。

以上、ご覧いただきありがとうございました。

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香港デモから考える、日本の若者の国民意識

当ブログに立ち寄っていただいた皆様へ

 

はじめまして、神奈川県のとある4年制大学に通っているものです。

これまでの大学生活では読書に没頭しておりました。

このブログでは気になるニュースや日常の出来事に対して大学生という拙い視点からリベラルな意見を発信したり、趣味である読書の私感を記していきたいと思います。

早速ですが、自己紹介と共に香港デモについて私見を表したいと思います。

 

 

 

香港デモ 国民の主張は?

 

いまだ沈静化の目途がたたない香港のデモ活動。昨日15日にも、数万人規模の大規模無許可デモが行われました。

香港政府は逃亡犯条例案を撤回しましたが、デモの長期化を見ればわかる通り、逃亡犯条例案は「きっかけ」であり、「問題の核」ではないのです。

f:id:yoko-kazu1999:20190916165938j:image       香港デモの様子 

 

香港デモで主張しているのは五大要求であり、この要求の根本は一国二制度に基づく香港での基本的な自由・権利の主張であり、中国との同一化による安定は望んではいません。香港市民は中国人としてでなく、香港人としての権利を主張しています。

これ以上の事件そのものについての意見はマスメディアにお任せして、私がこの件で何を伝えたいかというと、香港の若者の国に対する関心度です。

 

日本の若者も国民意識を持とう

 

今回のデモでは非常に多くの若者が参加しています。大学生はもちろん、中高生の参加者まで多くいるそうです。

この事実を知ったときに私は「もし日本で同じような状況になったときに、日本の学生は何か行動を起こすのだろうか?」という疑問を持ちました。

なにも、香港と同じような大規模なデモを起こすべきだというのではなく、自分の国で起こっていることを認識して、意見を持ち、発信することが大切であると私は考えます。

幸運なことに、現代では誰もが情報を発信できる時代です。自分一人が発信しても変化は全く起きないではないかと言われればその通りかもしれません。

しかし、主張や意見の発信がなければ日本の若者の存在は無に等しいものとなり、意思を持たない日本の経済循環の歯車の一つとなります。どんなに小さな形でも、「日本のここがおかしいなぁ」・「もっとこうすれば日本はよくなるのになぁ」といった自国に対しての意見を発信することで、意思を持つ一人の日本国民として成立するのです。

YouTuberに熱中したり、アプリゲームに没頭するのもいいですが、ほんの少しの時間を使って自分の国に関心を持ってみてください。未来の日本を担うのは私たち若者です。

以上、ご覧いただきありがとうございました。

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